ソウルの熱情 Soul in Seoul(34)
安さんの話に戻ろう。
安さんには二人の息子そして二人の娘がいる。僕の祖父の教えを受けて、安さんは子供たちに「誠実であれ、勤勉であれ」と説き続け、四人の子供たちはそれぞれソウルの有名大学を終えた。長男は韓国銀行勤務、次男は裁判官、娘たちは医者や大企業社員に嫁いでいるからそれぞれ社会のエリートと言っていいだろう。
(それに引き換え、「おじい様」の直系である僕自身は社会の落ちこぼれ、とは言いたくないが、エリートからは程遠い存在だ。)
長男のS氏は二〇〇一年、韓国銀行東京事務所の次長として家族とともに東京に着任、そのとき安さんも息子と一緒という気安さから、一年間東京に滞在した。この間、たまたま僕が所属する外国特派員協会は、韓国銀行と有楽町のビルで隣同士だったため、僕達は特派員協会のバーで何回か親交を温める機会を持った。
S氏は、外見は細身でちょっと神経質そうだが、如才のない態度は銀行マンでありエリートサラリーマンそのものだった。しかし反日教育の中で育った彼とは何か打ち解けないものを感じつつ、三年後に彼はソウルに戻った。その後、音信がなくなった。
二〇〇五年、S氏からの突然の手紙で、安さんが一年前に他界した、と知らせてきた。なぜもっと早く知らせてくれなかったのか理解に苦しむ。この手紙とて安さんから音信が途絶えていたために、何回か僕の両親が手紙を送った後でのものなのだ。
S氏は単に知らせることを失念してしまったのかもしれない。だが、我が家を故意に無視したのかもしれない。そんなS氏側の事情はともかく、父は兄弟を失ったかのごとく悲嘆し、同時に自分たちの時代が終わろうとしている感慨を漏らした。
安さんは生前よく僕に言っていた。「これからは息子たち、そしてあなたの時代です。仲良くしてください。それが韓国と日本の明るい未来を作るのです」と。
大統領選を取材して以後、僕は韓国を訪れていない。世間では「韓流ブーム」とやらで韓国人スター達に人気が集中し、韓国ツアーが盛んだ。僕にはこの一時のブームが本当の日本と韓国の隣人としての付き合いになって欲しいと願いつつも、逆に僕の中で遠のいていく韓国を感じざるを得ないのだ。
そう言えば、今では首の周りの例の痣もすっかり消えてしまっている。
(了)
安さんには二人の息子そして二人の娘がいる。僕の祖父の教えを受けて、安さんは子供たちに「誠実であれ、勤勉であれ」と説き続け、四人の子供たちはそれぞれソウルの有名大学を終えた。長男は韓国銀行勤務、次男は裁判官、娘たちは医者や大企業社員に嫁いでいるからそれぞれ社会のエリートと言っていいだろう。
(それに引き換え、「おじい様」の直系である僕自身は社会の落ちこぼれ、とは言いたくないが、エリートからは程遠い存在だ。)
長男のS氏は二〇〇一年、韓国銀行東京事務所の次長として家族とともに東京に着任、そのとき安さんも息子と一緒という気安さから、一年間東京に滞在した。この間、たまたま僕が所属する外国特派員協会は、韓国銀行と有楽町のビルで隣同士だったため、僕達は特派員協会のバーで何回か親交を温める機会を持った。
S氏は、外見は細身でちょっと神経質そうだが、如才のない態度は銀行マンでありエリートサラリーマンそのものだった。しかし反日教育の中で育った彼とは何か打ち解けないものを感じつつ、三年後に彼はソウルに戻った。その後、音信がなくなった。
二〇〇五年、S氏からの突然の手紙で、安さんが一年前に他界した、と知らせてきた。なぜもっと早く知らせてくれなかったのか理解に苦しむ。この手紙とて安さんから音信が途絶えていたために、何回か僕の両親が手紙を送った後でのものなのだ。
S氏は単に知らせることを失念してしまったのかもしれない。だが、我が家を故意に無視したのかもしれない。そんなS氏側の事情はともかく、父は兄弟を失ったかのごとく悲嘆し、同時に自分たちの時代が終わろうとしている感慨を漏らした。
安さんは生前よく僕に言っていた。「これからは息子たち、そしてあなたの時代です。仲良くしてください。それが韓国と日本の明るい未来を作るのです」と。
大統領選を取材して以後、僕は韓国を訪れていない。世間では「韓流ブーム」とやらで韓国人スター達に人気が集中し、韓国ツアーが盛んだ。僕にはこの一時のブームが本当の日本と韓国の隣人としての付き合いになって欲しいと願いつつも、逆に僕の中で遠のいていく韓国を感じざるを得ないのだ。
そう言えば、今では首の周りの例の痣もすっかり消えてしまっている。
(了)
ソウルの熱情 Soul in Seoul(32)
ここで少し祖父について記しておこう。
祖父は金沢で明治一〇年に生まれている。曽祖父は金沢藩前田家の御典医だったそうで、明治になってからも家の天井からは登城用の籠が吊るされていたというから、本当の話だろう。
祖父は金沢の中学、そしてやはり地元の第四高等学校、そして京都帝国大学の法科に進んでいる。金沢時代は相当の「ワル」だったらしく、祖父の姿を見つけると人々は回り道をして会うのを避けたという。しかし今に言う暴走族のようなものではなく、いわゆる義賊ぶったワル、または乱暴者とでもいうのだろうか。常に剣道着を身につけ(剣道部員だった)、鎌とお椀を腰から下げ(命、かま・わん、という洒落)、竹刀を持ち金沢の町中を闊歩していたという。その頃の(特に明治中期の)旧制高等学校の生徒は皆こんな感じで、特別な変人ではなかったらしい。
父も祖父と同じコースを歩んだが、父の頃(昭和初期)の写真を見れば、明治も昭和初期も同じように僕たちには異様だ。文字通り弊衣破帽に素足の高下駄。蕎麦屋に行けばマントの中に火鉢を隠し持って来たり、学生寮の二階に住む寮生は「寮雨」と称して窓から小便を放ったり、とやりたい放題だ。
こんな思い出を父はいかにも楽しそうに話す。社会もそれを許していたし、本人達も非常識と言われるスレスレの線で自重する感覚は持っていたようだ。
さて、祖父は大学卒業後大蔵省に入省、すぐに京都府内の田舎町の税務署長として赴任した。しかし貧農から税を取り立てる仕事にすっかり嫌気が差し、ニ、三年でさっさと役人生活を辞めてしまった。大学を出たばかりの正義感に満ちた若者には耐えがたかったのだろう。
大学の恩師にその後の道を相談したところ、これからは「保険会社」がいいと言われ、明治生命に入社した。当時生まれたばかりの保険制度は「学問を発展させ、国を助ける」と言われ、世間から期待された制度であり会社だったという。
なぜこうなるのか理解できないが、ともかく福沢諭吉でさえ「保険制度は生活の不安を解消し、学者は学問に打ち込める。しいては人の品性をも高める制度」だと説いている。祖父がこんなことを言われればその職に飛びつくのは容易に想像ができる。
ところが、熱情あふるる祖父は、ここでも素直にサラリーマンが勤まるような男ではなかった。上に楯突くあまり各地の支店長を転々とした挙句、京城(ソウル)に一〇年近くも「飛ばされて」いた、というのが真実らしい。大人しくしていれば当然社長になっている人物だったのだろうが性格がそうはさせなかった。
その息子(つまり僕の父親)も、若かりし頃、嫌味な上司にインク瓶を投げつけ、おかげで地方に五年も飛ばされていたという実績があるから、これはもう血筋としか言いようがない。この地方転勤時に僕が生まれているため、兄弟の中では唯一、僕だけが東京生まれではない。(こうした家族の「秘密」を僕に語ってくれたのも安さんだ。)
祖父は金沢で明治一〇年に生まれている。曽祖父は金沢藩前田家の御典医だったそうで、明治になってからも家の天井からは登城用の籠が吊るされていたというから、本当の話だろう。
祖父は金沢の中学、そしてやはり地元の第四高等学校、そして京都帝国大学の法科に進んでいる。金沢時代は相当の「ワル」だったらしく、祖父の姿を見つけると人々は回り道をして会うのを避けたという。しかし今に言う暴走族のようなものではなく、いわゆる義賊ぶったワル、または乱暴者とでもいうのだろうか。常に剣道着を身につけ(剣道部員だった)、鎌とお椀を腰から下げ(命、かま・わん、という洒落)、竹刀を持ち金沢の町中を闊歩していたという。その頃の(特に明治中期の)旧制高等学校の生徒は皆こんな感じで、特別な変人ではなかったらしい。
父も祖父と同じコースを歩んだが、父の頃(昭和初期)の写真を見れば、明治も昭和初期も同じように僕たちには異様だ。文字通り弊衣破帽に素足の高下駄。蕎麦屋に行けばマントの中に火鉢を隠し持って来たり、学生寮の二階に住む寮生は「寮雨」と称して窓から小便を放ったり、とやりたい放題だ。
こんな思い出を父はいかにも楽しそうに話す。社会もそれを許していたし、本人達も非常識と言われるスレスレの線で自重する感覚は持っていたようだ。
さて、祖父は大学卒業後大蔵省に入省、すぐに京都府内の田舎町の税務署長として赴任した。しかし貧農から税を取り立てる仕事にすっかり嫌気が差し、ニ、三年でさっさと役人生活を辞めてしまった。大学を出たばかりの正義感に満ちた若者には耐えがたかったのだろう。
大学の恩師にその後の道を相談したところ、これからは「保険会社」がいいと言われ、明治生命に入社した。当時生まれたばかりの保険制度は「学問を発展させ、国を助ける」と言われ、世間から期待された制度であり会社だったという。
なぜこうなるのか理解できないが、ともかく福沢諭吉でさえ「保険制度は生活の不安を解消し、学者は学問に打ち込める。しいては人の品性をも高める制度」だと説いている。祖父がこんなことを言われればその職に飛びつくのは容易に想像ができる。
ところが、熱情あふるる祖父は、ここでも素直にサラリーマンが勤まるような男ではなかった。上に楯突くあまり各地の支店長を転々とした挙句、京城(ソウル)に一〇年近くも「飛ばされて」いた、というのが真実らしい。大人しくしていれば当然社長になっている人物だったのだろうが性格がそうはさせなかった。
その息子(つまり僕の父親)も、若かりし頃、嫌味な上司にインク瓶を投げつけ、おかげで地方に五年も飛ばされていたという実績があるから、これはもう血筋としか言いようがない。この地方転勤時に僕が生まれているため、兄弟の中では唯一、僕だけが東京生まれではない。(こうした家族の「秘密」を僕に語ってくれたのも安さんだ。)
ソウルの熱情 Soul in Seoul(31)
「安さん」(父達は親しみをこめて「ヤスさん」と呼ぶ。しかし本名は「アンさん」だ)、彼は戦前祖父が京城にいた時、父の弟、つまり僕の叔父の子守として子供の頃から祖父宅に住み込んでいた人物で、現在はもう七〇歳を越えた老人である。
七〇歳といっても50歳台にしか見えないほど髪の毛は黒々とし、歩きは僕よりしっかりしていた。ソウル大学の裏山に登ったときなど、息を切らせた僕を尻目に、さっさと先に頂まで行ってしまったほどだ。
安さんは祖父の転勤と共に一緒に日本に渡り、日本で就職。戦後一番に韓国に戻って四人の子供を育て上げ、今は悠々自適の生活を送っていた。だから僕が韓国にちょくちょく行くようになってからは必ず僕の通訳をかって出てくれるようになっていた。
彼にとって僕は世話になった祖父の孫であると同時に自分の息子のような存在だったのだろう。そういう気安さのせいか、安さんは時々、僕の持っていた常識を覆すような話をしだすので面食らわされた。
例えば、彼に言わせると、この朝鮮で政治、学校、郵便、鉄道交通、その他近代国家としての体裁を整えたのは日本であり、自分がこうして社会の中で成功して今あるのは「礼儀を尊び勤勉であれ」と教えてくれ、自分の子供達と分け隔てなく育ててくれた祖父のお陰だ、と言うのだ。
それに、祖父は日本人からも朝鮮人からも慕われ、彼の離任時には京城(ソウル)駅前広場を埋め尽くす人々が見送りに来たという(いくら何でもこれは大げさだろう)。こういう立派な日本人もいたのだ、と安さんは強調する。だから朝鮮が日本の植民地にならなかったら、今のような韓国の発展はなかったろう、とまで言う。
韓国内ではいわゆる「親日派」の発言だ。こうした言論に僕の方から反論することではないが、それで事が済むわけではないし、歴史も書き換えられはしない。ただ、僕は自分の祖父の実像を初めて他人から、それもソウルで教えられたし(祖父は僕の生まれる前に亡くなっており、祖母からは暴君として教えられていた)、また、韓国の人から感謝されている日本人も居たのだ、ということを知って、罪の意識がいくぶん和らいだのは確かだ。
七〇歳といっても50歳台にしか見えないほど髪の毛は黒々とし、歩きは僕よりしっかりしていた。ソウル大学の裏山に登ったときなど、息を切らせた僕を尻目に、さっさと先に頂まで行ってしまったほどだ。
安さんは祖父の転勤と共に一緒に日本に渡り、日本で就職。戦後一番に韓国に戻って四人の子供を育て上げ、今は悠々自適の生活を送っていた。だから僕が韓国にちょくちょく行くようになってからは必ず僕の通訳をかって出てくれるようになっていた。
彼にとって僕は世話になった祖父の孫であると同時に自分の息子のような存在だったのだろう。そういう気安さのせいか、安さんは時々、僕の持っていた常識を覆すような話をしだすので面食らわされた。
例えば、彼に言わせると、この朝鮮で政治、学校、郵便、鉄道交通、その他近代国家としての体裁を整えたのは日本であり、自分がこうして社会の中で成功して今あるのは「礼儀を尊び勤勉であれ」と教えてくれ、自分の子供達と分け隔てなく育ててくれた祖父のお陰だ、と言うのだ。
それに、祖父は日本人からも朝鮮人からも慕われ、彼の離任時には京城(ソウル)駅前広場を埋め尽くす人々が見送りに来たという(いくら何でもこれは大げさだろう)。こういう立派な日本人もいたのだ、と安さんは強調する。だから朝鮮が日本の植民地にならなかったら、今のような韓国の発展はなかったろう、とまで言う。
韓国内ではいわゆる「親日派」の発言だ。こうした言論に僕の方から反論することではないが、それで事が済むわけではないし、歴史も書き換えられはしない。ただ、僕は自分の祖父の実像を初めて他人から、それもソウルで教えられたし(祖父は僕の生まれる前に亡くなっており、祖母からは暴君として教えられていた)、また、韓国の人から感謝されている日本人も居たのだ、ということを知って、罪の意識がいくぶん和らいだのは確かだ。
ソウルの熱情 Soul in Seoul(30)
なぜ、かくも韓国・朝鮮という言葉がこれほどまでに自分、否、日本人すべてを呪縛するのだろうか。僕は戦後の生まれであり、日本の植民地支配の実体を知っているわけでもないし、東京育ちだから関西のように在日朝鮮・韓国の人達と身近に接したこともない。
考えられることは、韓国の日本への怨念に対し、まともに受け答えしようとする態度が戦後の日本人になかったからではないか。それは出来なかった、ということではなく意識的な回避と、底に流れる差別意識によるように思う。
この様な状況の中で育った僕達は「日本は朝鮮で非道い事をしたんだ」とか「差別はいけない」などと教えられながら、社会の韓国・朝鮮へのあからさまな差別を見ていた。この矛盾が日本人を、少なくとも僕自身を呪縛するのだ。それに僕の家族も関係していたと思う。
実を言うと、韓国は僕にとってはそんなになじみのない国というわけではなかった。むしろ幼い頃から家族に聞かされていたがゆえに、身近な存在であったかも知れない。
僕の祖父は戦前の京城(現在のソウル)に仕事の関係で10年近くも住んでおり、父もその兄弟姉妹達も幼少期をここで過ごしている。また、祖父の趣味が骨董だったこともあり、家には朝鮮の螺鈿の家具や焼き物が数多く置いてあった。
しかし、わが家で朝鮮の話が出ることはまずなく、ましてや強制連行や差別などという暗い言葉が語られることはなかった。それは、今から考えれば、祖母や父が朝鮮での植民地支配の醜さを身をもって知っていたからこそ、贖罪の念からこの間題には触れたがらなかったのだと思う。
反面、今の韓国の日本への過度の感情的反発に辟易していたのも確かだ。日本人にとっては罪ではあったと認識する理性は持っていても、「ならばすべての不都合の根源を引き受けよう」という感情は持っていない。
この相反する理性と感情の狭間で、僕の家族は発言を控え呻吟していたのだと思う。
こうした窒息状況の中で、我家での息抜きは「安さん」という一人の男性だった。この「安さん」を通して我家では戦後もずっと韓国と深い付き合いが継続されていた。「安さん」から手紙が来たとか、今度はいつ日本に来るのだろう、という会話が家族の中でなされていた。そしてその後この「安さん」こそが、僕の当初の韓国取材での通訳・ガイドを務め、僕の韓国・朝鮮問題の先生となった人物なのだ。
考えられることは、韓国の日本への怨念に対し、まともに受け答えしようとする態度が戦後の日本人になかったからではないか。それは出来なかった、ということではなく意識的な回避と、底に流れる差別意識によるように思う。
この様な状況の中で育った僕達は「日本は朝鮮で非道い事をしたんだ」とか「差別はいけない」などと教えられながら、社会の韓国・朝鮮へのあからさまな差別を見ていた。この矛盾が日本人を、少なくとも僕自身を呪縛するのだ。それに僕の家族も関係していたと思う。
実を言うと、韓国は僕にとってはそんなになじみのない国というわけではなかった。むしろ幼い頃から家族に聞かされていたがゆえに、身近な存在であったかも知れない。
僕の祖父は戦前の京城(現在のソウル)に仕事の関係で10年近くも住んでおり、父もその兄弟姉妹達も幼少期をここで過ごしている。また、祖父の趣味が骨董だったこともあり、家には朝鮮の螺鈿の家具や焼き物が数多く置いてあった。
しかし、わが家で朝鮮の話が出ることはまずなく、ましてや強制連行や差別などという暗い言葉が語られることはなかった。それは、今から考えれば、祖母や父が朝鮮での植民地支配の醜さを身をもって知っていたからこそ、贖罪の念からこの間題には触れたがらなかったのだと思う。
反面、今の韓国の日本への過度の感情的反発に辟易していたのも確かだ。日本人にとっては罪ではあったと認識する理性は持っていても、「ならばすべての不都合の根源を引き受けよう」という感情は持っていない。
この相反する理性と感情の狭間で、僕の家族は発言を控え呻吟していたのだと思う。
こうした窒息状況の中で、我家での息抜きは「安さん」という一人の男性だった。この「安さん」を通して我家では戦後もずっと韓国と深い付き合いが継続されていた。「安さん」から手紙が来たとか、今度はいつ日本に来るのだろう、という会話が家族の中でなされていた。そしてその後この「安さん」こそが、僕の当初の韓国取材での通訳・ガイドを務め、僕の韓国・朝鮮問題の先生となった人物なのだ。
ソウルの熱情 Soul in Seoul(29)
翌朝、どちらからともなく目を覚まし朝の準備に入る。P君はすっかり落ち書いたのか、昨夜の話は何もしない。僕の方からもあえて話しはしない。まるで昨夜の出来事は何もなかったかのようだ。
事務的に彼の仕事の報酬を支払い、領収書を書いて貰う。衣類や機材の散らかった部屋を片づけ、それぞれ自分の荷物を作り、入り口のドアの横に運んだ。電話でベルボーイを呼び、荷物をフロントに降ろしてもらう。
僕はカメラバッグを肩にし、彼はいつものようにストロボと三脚のバッグを持って後に続いた。フロントで勘定を済ませた僕達はこれもいつものようにタクシーを探しに外に出た。
「本当に世話になったね。お陰でいい仕事が出来たと思う。君と−緒にいて楽しかった。また逢えることもあるだろうけどそれまで元気で。じゃ、アンニニョンヒ、カセヨ(さようなら)」
「僕もお会いできてよかったと思います。気をつけて帰って下さい。ではアンニョンヒ、ケセヨ(さようなら)」
僕はそのままタクシーに乗り込み空港へと向かった。穏やかな説得はとうとう出来なかったけれど、頼まれた破談請負人の仕事は終わった。
彼に誤解を与えて、といっても僕には真相はわからないが、こんな荒っぽい結末になってしまったのが残念だが、そのうち彼も彼女のことを理解する日がくるだろう、と思うことにした。
事務的に彼の仕事の報酬を支払い、領収書を書いて貰う。衣類や機材の散らかった部屋を片づけ、それぞれ自分の荷物を作り、入り口のドアの横に運んだ。電話でベルボーイを呼び、荷物をフロントに降ろしてもらう。
僕はカメラバッグを肩にし、彼はいつものようにストロボと三脚のバッグを持って後に続いた。フロントで勘定を済ませた僕達はこれもいつものようにタクシーを探しに外に出た。
「本当に世話になったね。お陰でいい仕事が出来たと思う。君と−緒にいて楽しかった。また逢えることもあるだろうけどそれまで元気で。じゃ、アンニニョンヒ、カセヨ(さようなら)」
「僕もお会いできてよかったと思います。気をつけて帰って下さい。ではアンニョンヒ、ケセヨ(さようなら)」
僕はそのままタクシーに乗り込み空港へと向かった。穏やかな説得はとうとう出来なかったけれど、頼まれた破談請負人の仕事は終わった。
彼に誤解を与えて、といっても僕には真相はわからないが、こんな荒っぽい結末になってしまったのが残念だが、そのうち彼も彼女のことを理解する日がくるだろう、と思うことにした。
ソウルの熱情 Soul in Seoul(28)
ベッドに腰掛けていたP君が突然仰向けにひっくり返った。はあ、はあと苦しそうな息をし始め、目は天井を見据え動かない。僕は仰天した。
「おい、P君、しっかりしろ。どうしたんだ、おい、しっかりしろ」とベッドに飛び乗って彼の体をゆする。依然、P君は視点の定まらない目を大きく開け放ったまま、苦しそうにもがいている。ロの中から泡が吹き出した。もう僕もすっかり動転してしまって、彼の顔面にともかく平手打ちを放った。それでもまだもがいている。
気が高ぶりすぎてショックで発作を起こしたらしい。ショック症状の処置の仕方なんか僕は知らない。こんな所で、こんなことで、息でも詰まらせたり心臓発作で死なれたらかなわない。こちらもほとんどショック状態だ。
風呂場に駆け込みタオルに水を含ませて顔を濡らしてやる。別にこうすればどうなるなどという考えはなかったが、水をぶっかけたらベッドがずぶ濡れになると思っただけだ。
フロントに電話して医者を呼ぼうか、呼ぶまいかとためらっているうちに、だんだん発作が収まってきた。呼吸も、はあはあという荒い息づかいが少しづつ静かになってきた。医者を呼ばなくとも何とかなるようだ。ズボンのベルトをゆるめ、シャツの胸元を広げてベッドに真っ直ぐに寝かせ、毛布をかけてやる。
まだ目は見開いたままだが、もう発作は終わったらしい。隣のベッドから見ていると、そのうち気が付いたのかゆっくりと寝返りを打って壁の方に体を向けてしまった。大丈夫なようだ。
もう話しかけるのは止めよう。ゆっくり休んで欲しい。つらいだろうけど仕方がないんだ、これだけは。
「おい、P君、しっかりしろ。どうしたんだ、おい、しっかりしろ」とベッドに飛び乗って彼の体をゆする。依然、P君は視点の定まらない目を大きく開け放ったまま、苦しそうにもがいている。ロの中から泡が吹き出した。もう僕もすっかり動転してしまって、彼の顔面にともかく平手打ちを放った。それでもまだもがいている。
気が高ぶりすぎてショックで発作を起こしたらしい。ショック症状の処置の仕方なんか僕は知らない。こんな所で、こんなことで、息でも詰まらせたり心臓発作で死なれたらかなわない。こちらもほとんどショック状態だ。
風呂場に駆け込みタオルに水を含ませて顔を濡らしてやる。別にこうすればどうなるなどという考えはなかったが、水をぶっかけたらベッドがずぶ濡れになると思っただけだ。
フロントに電話して医者を呼ぼうか、呼ぶまいかとためらっているうちに、だんだん発作が収まってきた。呼吸も、はあはあという荒い息づかいが少しづつ静かになってきた。医者を呼ばなくとも何とかなるようだ。ズボンのベルトをゆるめ、シャツの胸元を広げてベッドに真っ直ぐに寝かせ、毛布をかけてやる。
まだ目は見開いたままだが、もう発作は終わったらしい。隣のベッドから見ていると、そのうち気が付いたのかゆっくりと寝返りを打って壁の方に体を向けてしまった。大丈夫なようだ。
もう話しかけるのは止めよう。ゆっくり休んで欲しい。つらいだろうけど仕方がないんだ、これだけは。
ソウルの熱情 Soul in Seoul(27)
外に待たせてあったホテルタクシーでホテルに戻る。二人して部屋に戻ると、まずは仕事の終了を祝して乾杯だ。彼は全く酒は飲めないのでジュースでつき合ってくれる。
今夜の金大中氏の話で盛り上がり、ダメだといわれた時の、僕の血相を変えた顔がおかしかったとP君が笑う。
それでもこの一週間ほとんど眠らずによく頑張ったと思う。彼がいなかったらこの仕事は出来なかったろう。P君の卓抜した語学力、交渉能力にあらためて感謝する。日本に来てもっと勉強できればいいがと思ったが、これはロに出しては言えなかった。
明日の飛行機は午前中なのでそろそろ寝ようか、という時になってP君がぽつりと話し出した。
「ジョーさんはどうしてYさんと知り合いなんですか」
「うん、東京でアジアの人達と交流しようという若い人達の団体があって、そこで知り合ったんだ」
「じゃあ、そんなに古い知り合いじゃないんでしょう」
「まあ、二、三年というところかな」
「それなのにどうしてこんな大事なことを彼女はジョーさんに頼んだんですか。おかしいじゃないですか」
「いや、それはたまたま僕がソウルに行くことになったから、頼んできたんだよ」
「じゃ彼女に言って下さい。僕はいつまでも愛してるって。僕は諦めません。僕は日本に行きます。日本の学校に入ります。そうすれば彼女だってわかってくれるはずです」
「その話は止めよう。ともかく彼女は諦めてくれと言ってるんだから。日本に行って彼女に恋人でもいたらどうするんだい」と言って、しまったと思ったがもう遅かった。
「そんなはずないです。それとも…いるんですか。いるんでしょう。だから諦めてくれなんて言ってるんだ。ジョーさんは知っているんでしょう。だから、だからなんだ…」
今夜の金大中氏の話で盛り上がり、ダメだといわれた時の、僕の血相を変えた顔がおかしかったとP君が笑う。
それでもこの一週間ほとんど眠らずによく頑張ったと思う。彼がいなかったらこの仕事は出来なかったろう。P君の卓抜した語学力、交渉能力にあらためて感謝する。日本に来てもっと勉強できればいいがと思ったが、これはロに出しては言えなかった。
明日の飛行機は午前中なのでそろそろ寝ようか、という時になってP君がぽつりと話し出した。
「ジョーさんはどうしてYさんと知り合いなんですか」
「うん、東京でアジアの人達と交流しようという若い人達の団体があって、そこで知り合ったんだ」
「じゃあ、そんなに古い知り合いじゃないんでしょう」
「まあ、二、三年というところかな」
「それなのにどうしてこんな大事なことを彼女はジョーさんに頼んだんですか。おかしいじゃないですか」
「いや、それはたまたま僕がソウルに行くことになったから、頼んできたんだよ」
「じゃ彼女に言って下さい。僕はいつまでも愛してるって。僕は諦めません。僕は日本に行きます。日本の学校に入ります。そうすれば彼女だってわかってくれるはずです」
「その話は止めよう。ともかく彼女は諦めてくれと言ってるんだから。日本に行って彼女に恋人でもいたらどうするんだい」と言って、しまったと思ったがもう遅かった。
「そんなはずないです。それとも…いるんですか。いるんでしょう。だから諦めてくれなんて言ってるんだ。ジョーさんは知っているんでしょう。だから、だからなんだ…」
ソウルの熱情 Soul in Seoul(26)
もうそろそろ午前一時もまわろうという時、玄関の方で人の動きが激しくなった。例の自宅秘書氏が我々の方に「さあ、掃ってきたぞ。」と言うように目くばせで合図する。
P君と二人して立ち上がって金大中氏を迎える。しかし、金氏は秘書と二言三言交わすと我々をじろりと一瞥して奥の部屋に入ってしまったのだ。あわてて食い下がるP君、それを押し止める秘書。
秘書の言うには、金氏は非常に疲れており写真撮影、インタビューは一切お断りで、すぐに帰って欲しいという。確かに帰宅したときの金氏は髪の毛はぽさぽさ、服も乱れ、表情は険しく、とても写真を撮らせて下さいなどと頼めるような雰囲気ではなかった。
しかし、こちらとて何度もこの家まで足を運び、明日は日本に帰らねばならないのだ。ここでああそうですかと引き下がっていたのでは今までの苦労が水の泡と帰す。P君に向かって僕は怒鳴った。
「秘書に言ってくれ。我々は写真を撮るまでは絶対に帰らない。二分でいいから顔を出して欲しい。今まで金泳三氏も廬泰愚氏も快く承諾してくれたんだ。金大中氏だけ拒否したと、そう記事に書いていいのか、と。」
その言葉を聞いて渋々奥に入った秘書が、五分も経ってから戻ってきた。
「じや、本当に二分ですよ。二分で終わりにして下さい。先生は今服を書替えていますから少々待ってください。」
待つことさらに一〇数分、新しい背広に着替えた金大中氏が、本当に渋々ながら応接間に入ってきた。何やら韓国語でP君に文句を言って、自分のソファーに腰掛ける。
僕が日本語でポーズの注文を付けても韓国語でP君に何か言うだけで、こちらの言うことは完全に無視だ。体中で怒りを露にしていることがよくわかる。
ワンロール一ニ枚撮ったところで、金氏はさっさと席を立って奥に入ってしまった。僕にとって彼は正義の味方なのだ、少しは話がしたかった。だが同時に彼も全羅南道の人間だったのだ。
P君と二人して立ち上がって金大中氏を迎える。しかし、金氏は秘書と二言三言交わすと我々をじろりと一瞥して奥の部屋に入ってしまったのだ。あわてて食い下がるP君、それを押し止める秘書。
秘書の言うには、金氏は非常に疲れており写真撮影、インタビューは一切お断りで、すぐに帰って欲しいという。確かに帰宅したときの金氏は髪の毛はぽさぽさ、服も乱れ、表情は険しく、とても写真を撮らせて下さいなどと頼めるような雰囲気ではなかった。
しかし、こちらとて何度もこの家まで足を運び、明日は日本に帰らねばならないのだ。ここでああそうですかと引き下がっていたのでは今までの苦労が水の泡と帰す。P君に向かって僕は怒鳴った。
「秘書に言ってくれ。我々は写真を撮るまでは絶対に帰らない。二分でいいから顔を出して欲しい。今まで金泳三氏も廬泰愚氏も快く承諾してくれたんだ。金大中氏だけ拒否したと、そう記事に書いていいのか、と。」
その言葉を聞いて渋々奥に入った秘書が、五分も経ってから戻ってきた。
「じや、本当に二分ですよ。二分で終わりにして下さい。先生は今服を書替えていますから少々待ってください。」
待つことさらに一〇数分、新しい背広に着替えた金大中氏が、本当に渋々ながら応接間に入ってきた。何やら韓国語でP君に文句を言って、自分のソファーに腰掛ける。
僕が日本語でポーズの注文を付けても韓国語でP君に何か言うだけで、こちらの言うことは完全に無視だ。体中で怒りを露にしていることがよくわかる。
ワンロール一ニ枚撮ったところで、金氏はさっさと席を立って奥に入ってしまった。僕にとって彼は正義の味方なのだ、少しは話がしたかった。だが同時に彼も全羅南道の人間だったのだ。
ソウルの熱情 Soul in Seoul(25)
次の日は取材最終日。午前中に金大中氏宅を一度見回り、午後は金泳三氏の汝臭島での最後の大演説会に顔を出す。何万という人の波が広場を埋め尽くし、この集まりだけを見ていれば圧倒的に金泳三氏の当選確実だ。
壇上は金泳三氏のシンボルカラーの黄色で埋め尽くされ、時折、黄色の風船が空に舞う。日本の選挙よりずっとハデで、この辺りはアメリカ的とも言える。
もうこの頃になると日本の記者、カメラマンも大勢やってきており、会場で旧知の彼等と出くわした。やあやあ、としばし情報交換で暇をつぶす。それぞれ何処の雑誌の依頼で来ているのかとか、自費取材なのか顎足付きなのか、といったことが重要なのだ。
大雑誌の顎足付きで取材に来ている連中や、大新聞社の記者に知り合いでも見つければしめたもんだ。つまり今晩は一杯やれるわけだ、もちろん彼の奢りで。
しかし、今回こちらは演説会取材が目的ではないので、適当に何枚か写真を撮って、早々に会場を抜け出した。
夜十一時、いよいよ最後のターゲットである東橋洞の金大中氏宅へ向かう。
同氏はまだ帰宅していなかった。しかし自宅の秘書氏にはもう何度も会っていたので応接間まで通される。自宅はさすが野党の闘士、平屋建てのごく普通の民家。庭に事務所用のプレハブが建っている。
しかし応接間はさすが政治家らしく、金泳三氏や廬泰愚氏の家と同じように当主の大きなソファーを中心に、ソファー、長椅子がそれを取り囲んでいる。そして当主のソファーの横には、例の立派な事務用電話が鎮座している。
他の二人と違うところは、部屋の中にやたらと観葉植物や自然石が飾ってあることだ。後で聞いたところによると、金大中氏が朴政権時代の自宅軟禁中に始めたのが蘭の栽培だそうだ。
あの苦虫をつぶしたような顔で花が趣味というのはちょと意外だった。しかし野党政治家として何十年というキャリアの中で、こうした不遇の時代を自宅で花や石を相手に時を過ごしてきたのかと思うと、今の同氏の政治に賭ける執念が理解できるような気もする。
僕達の知っている金大中氏の姿は、いつも白い着物のような囚人服姿だった。それも腰縄をつけて法廷に立つ裁かれる被告人だった。
しかし、当時の日本では朴正熈大統領は独裁政治をする悪人であり、彼に抗する金大中氏は民主主義を守る正義の政治家という見方が一般的だったのだ。だから彼の囚人服姿を見る度に、韓国とは民主主義を圧殺する独裁国家、というイメージが出来上がってしまったのだ。
考えてみれば、僕が物心ついてから韓国という国を具体的に意識したのは、この金大中事件からではないだろうか。
あれからもう20年近くが経とうとしている。
そしていま僕は、あの金大中氏とこれから会おうとしているのだ。
壇上は金泳三氏のシンボルカラーの黄色で埋め尽くされ、時折、黄色の風船が空に舞う。日本の選挙よりずっとハデで、この辺りはアメリカ的とも言える。
もうこの頃になると日本の記者、カメラマンも大勢やってきており、会場で旧知の彼等と出くわした。やあやあ、としばし情報交換で暇をつぶす。それぞれ何処の雑誌の依頼で来ているのかとか、自費取材なのか顎足付きなのか、といったことが重要なのだ。
大雑誌の顎足付きで取材に来ている連中や、大新聞社の記者に知り合いでも見つければしめたもんだ。つまり今晩は一杯やれるわけだ、もちろん彼の奢りで。
しかし、今回こちらは演説会取材が目的ではないので、適当に何枚か写真を撮って、早々に会場を抜け出した。
夜十一時、いよいよ最後のターゲットである東橋洞の金大中氏宅へ向かう。
同氏はまだ帰宅していなかった。しかし自宅の秘書氏にはもう何度も会っていたので応接間まで通される。自宅はさすが野党の闘士、平屋建てのごく普通の民家。庭に事務所用のプレハブが建っている。
しかし応接間はさすが政治家らしく、金泳三氏や廬泰愚氏の家と同じように当主の大きなソファーを中心に、ソファー、長椅子がそれを取り囲んでいる。そして当主のソファーの横には、例の立派な事務用電話が鎮座している。
他の二人と違うところは、部屋の中にやたらと観葉植物や自然石が飾ってあることだ。後で聞いたところによると、金大中氏が朴政権時代の自宅軟禁中に始めたのが蘭の栽培だそうだ。
あの苦虫をつぶしたような顔で花が趣味というのはちょと意外だった。しかし野党政治家として何十年というキャリアの中で、こうした不遇の時代を自宅で花や石を相手に時を過ごしてきたのかと思うと、今の同氏の政治に賭ける執念が理解できるような気もする。
僕達の知っている金大中氏の姿は、いつも白い着物のような囚人服姿だった。それも腰縄をつけて法廷に立つ裁かれる被告人だった。
しかし、当時の日本では朴正熈大統領は独裁政治をする悪人であり、彼に抗する金大中氏は民主主義を守る正義の政治家という見方が一般的だったのだ。だから彼の囚人服姿を見る度に、韓国とは民主主義を圧殺する独裁国家、というイメージが出来上がってしまったのだ。
考えてみれば、僕が物心ついてから韓国という国を具体的に意識したのは、この金大中事件からではないだろうか。
あれからもう20年近くが経とうとしている。
そしていま僕は、あの金大中氏とこれから会おうとしているのだ。

