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保守でございます。

(管理人)
長らく更新なしですみません。みな忙しいので、こうなってしまいます。
近々、電子書籍版に移行して弊ブログは役目を終えることになるかもしれません。
それはそれで、読みやすくなり、また時代を超えて残るものになると思うので、ご期待ください!
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未分類 | コメント(0) | 2013/09/30 21:08

ヴィエンチャン・レクイエム(13)

「サバイ、サバイ」

 ラオス女性の正装をみると必ずきれいな織物を肩から掛けている。選挙の時の候補者のように肩から斜めに掛けている布地だ。これはタイでもカンボジアでも同じこと。どこでも「サバイ」と呼ばれている布地なのだが、一般的には絹織物で、若い女性になればなるほど柄は派手になり高価なものになる。ラオス女性の服装の下は「シン」と呼ばれる巻きスカートで、上は大抵白いブラウスだ。そこに肩から垂らした「サバイ」は男の勲章みたいなものでなかなか見栄えがよろしい。

 しかしいくら飾りのようなものでも、なぜ肩から布を斜めに掛けるようなファッションができたのか。多分この地域ではカンボジアのクメール文化が最も古くて影響力の強い文化だが、その意味ではこの「サバイ」はカンボジアが発祥の地だろう。実際アンコールワットの壁画にも「サバイ」を着けた女性像があったと記憶している。しかしあまりにも簡単で子供っぽい「お飾り」ではないか。本来何か意味があるのだろうか。これは僕のちょっとした昔からの疑問だった。

 そこでS君に聞いてみた。
「あははー」と一笑いしたところで語りだした。
「あれはね、その昔、お寺に行く時の服装から始まったんだ。それが今では女性の正装となっているんだ。じゃ、なぜお寺に行くときにはあのように肩から布地を垂らすのか。それは、昔ラオスでは女性は上半身裸だったからだ。ブラジャーなんかなかったからね。そんな女性がお寺に行ったらどうなると思う?坊さんたちはいつも禁欲的な生活をしているのに、そこに胸も露わな女性が現れたら困るだろう。そこで女性たちは胸を隠すように言われて、布を体に巻きつけるようになったのさ」。つまりあれは「おっぱい隠し」?

 そう云われてみると、お年寄りの「サバイ」は幅も細くて簡単なもの。若い女性は幅の広い華麗な「サバイ」を身につけている、ように見える。やっぱりそうなのかな?
 そこでまたS君に聞いてみた。
「でも男もしているぜ」
「うん、あれは女たちがしているのを見て、男たちは格好いいと思ったんだろう。それで自分たちでもやり始めた。まあ、男たちのジェラシーさ」

 そう云えば今回の撮影でも、各部族の女たちはそれぞれ華麗な民族衣装を持っているのに、男たちのものとしては特にない。中にはモン族のように男独自の衣装を持っている民族もいるが、ほとんどの場合何の変哲もない濃紺(藍染)の農民服だ。女ばかり飾り立てれば男たちだってやきもちを焼くだろう。

 どこまで本当の話かわからないが、まことに、人間的で「サバイ、サバイ」(結構、結構)な話だ。
ヴィエンチャン・レクイエム | コメント(0) | 2013/07/14 10:24

ヴィエンチャン・レクイエム(12)

「ラムとラム」

 仕事もすべて終わったので最後の一日をどう遊ぶか考えていたら、会の日本人スタッフNさんからお声が掛かった。明日ある日本のNGOのメンバーが日本に帰るのでその送別会があるから一緒に行かないか、というお誘いである。そのときラムの人たちも来るので面白いよ、とのこと。それならばっちりラム酒が飲めそうなので二つ返事で「行くぞ」となった。

 実はこのラム酒、このラオスで日本人のおじさんグループが作っている。先日ボリカムサイに行った折、その工場の近くを通ったので是非覗かせて貰おうと思ったが、その時はもう遅かったので皆さん帰宅してしまった後だった。いつから始めたのか知らないが(二年前にはそんな話は聞かなかった)、日本で退職した男たち4人が、ラオスのサトウキビに目を付け、ラム酒作りを始めたのだ。無農薬のサトウキビ栽培からはじめ、無添加無着色の純粋ラム酒を作っているそうで、これは試してみなければとヴィエンチャンに帰るやすぐにピンポーン・マーケット(ヴィエンチャンで最も高級なスーパー)に飛び込んで一瓶購入した。ポケット瓶(350ml)が95000キップ(950円)とこの地にしては高価な飲み物だが(地元の米焼酎は一本50円)、飲んでみて納得。全くの無色でその味わいは清冽にして芳醇、これはいい。そのとき一人でほとんど一瓶を空けてしまったが、翌日は全く二日酔いなしで実に気持ちがいい。これは是非作っている人達にも会って話を聞かねばと思っていたところだったのだ。

 実は僕がラム酒にこだわるのにはちょっとした訳がある。今思い出しても穴があったら入りたい思いだが、もう時効だろうからここに書いてしまおう。

 1987年、前年のフィリピン・ピープルズパワー革命でマルコス政権が倒れ大統領はコラソン(コリー)・アキノに代わっていた。ところが政情落ち着かず、今度はホナサン大佐という男がクーデターを起した。そのため急遽僕は何度目かのフィリピンはマニラに赴いたのだ。その事件も片が付き、マニラの中央にあるハリソン・プラザというショッピングモールでの写真展を見に出かけた。そこで知り合った若い自称ABCTV(日本のTV朝日)の現地助手兼カメラマンという男と意気投合し、飲み歩くことになった。そのうち男二人では楽しくないということで彼の友人で女子大生だという女の子が呼び出された。すぐに現れた彼女はいかにも理知的で聡明そうな顔立、僕は少なからず興味をそそられた。

 ラマダ・ホテルのディスコで飲んでいたときこの彼氏がトイレに立った。すると彼女が、
「あなた、どこで彼に会ったの?信用できるの?私はよく知らない男よ。注意してね」と言うではないか。
「えッ、君たち友達ではないの?」
「とんでもない。この間大学の中で声を掛けられ電話番号を聞かれただけよ」
 彼氏がトイレから帰ってきてもう帰ろうということになったが、もう午前一時をまわっている。彼はそのまま出て行ったが、彼女がなかなか立ち去ろうとしない。
「でしょ、彼はお金も払わずに行ってしまったわ。あなたのカメラカバン、ちゃんとあるわね」。そしてついに「もうジプニーも捉まらないし、それにこんな夜更けにあなた一人だと危険よ。よかったら私の家にいらっしゃい。話していれば朝はすぐよ」と言うではないか。ここで僕の鼻の下がぐーっと伸びたのは言うまでもない。

 早速彼女の家があるというパサイ地区に向かい、とある長屋の一角に入った。スラムではないが、木造の庶民の家だ。そこに居たのは一人の若い男で彼女の弟だという。しかしどう見てもそこら辺にいるチンピラでしかない。彼が突き出したのが地元の「ラム酒」。つまり一緒に飲もうではないか、ということだ。酒にはいささか自信があった僕はそれを受けて立った。まあ、横に座った彼女にいいところを見せようとしたのだろうし、また少し酔えば彼女が介抱してくれるだろう、そうなれば…という甘い期待もあった。瓶が空くと僕が金を渡して彼女が新しいのを買ってきた。これを何回か繰り返しているうちに相手は堪らずダウン、こっちももうほとんど正気を失っていた。とうとう彼女が間に割って入り、僕を二階の彼女の部屋らしき所に運び込んだ(このへんは記憶が定かでない)。服を脱ぎズボンを引きはがされてそのまま僕はベッドで眠り込んでしまった。

 そして早朝まだ暗いうちに彼女にたたき起こされた。服を着せられ、外に連れだされ、ジプニーに押し込まれてホテルに戻った。頭は深酔いでボーッとしたまま、ほとんど意識はない。やっとの思いで部屋に辿りつき、そのままベッドに倒れ込んだ。そして目が覚めたのは昼過ぎ。質の悪いラム酒のおかげで激しい頭痛と嘔吐感、足はふらつき仕事どころではない。それでも総選挙の投票所に撮影に出かけなければならず、シャワーを浴び、着替え、カメラバッグを持ち上げて「オヤッ」と異変に気がついた。異常に軽いのだ。あわてて中を調べたらカメラ一台、レンズ2本、ストロボがなくなっているではないか(カメラ一台とレンズ一本は残っている)。次に財布だ。財布の中も小銭を残して高額紙幣はすべてなくなっている。それにパスポートだ。もちろんこれもない。一緒に入っていた予備費10万円もなくなっている。見事に身ぐるみ剥がされたのだ。そしてつらつらと昨夜のことを思い起こして気が付いた。ディスコの中で彼女は僕のノートに彼女の名前、住所、電話番号を書いてくれたはずだ。だがそのページはそっくり破り取られていた。しかし次のページにうっすらと残った筆跡をあぶりだしで再現してみたら読み取れたのだ。

 すぐさまフィリピン人の信頼できる友人を呼び出し、その住所にタクシーで急行した。しかしそこは昨夜とは全く方角の違う場所だし建物も見覚えがない。近所の住人に聞いても誰も彼女の事も名前を知らない。ここでやっと僕は理解した。つまり昨夜は全員が「グル」であり最初から僕はその「罠」にかかっていたのだ。それも相当巧妙に仕組まれた心理作戦にはまったのだ。恐るべしフィリピン人たち。しかし僕の死体がマニラ湾に浮かばなかっただけ幸運としなければいけないだろう。

 この時以来「ラム酒」は僕にとって「悪夢」を蘇えさせるにっくき代物になり変わった。そしてラム酒には決して手を出さなくなった。しかしそれではラム酒が可哀相だ。ラム酒=悪酒というトラウマから逃げ出すには「質の良いおいしいラム酒」に出会う以外ない(これは酒好きの僕の勝手な理論だが)。そして素晴らしい「ラム酒」にここヴィエンチャンで出会ったのだ。「悪夢」よ、安らかに眠っておくれ。

 翌日Nさんに連れられて郊外の一軒家で行われていたパーティーに出席した。高床住宅の床下が会場なのだが、もうすでに5、60名ものラオス人、日本人、西欧人があつまり、奥では楽団が入ってラオスの民族音楽をやっている。
「あの人たちはラオスでも有名なラムの人たちなのよ」とNさん。
「????????(意味わからず)」
「あら、ラムってラオス南部の伝統民謡よ。即興で歌っているのよ。知らなかった?」
「ええっ、ラムって、ラム酒じゃないの?」
「あははは、ごめんなさい!私がラムの人たちが来るって言ったのを、あのラム酒の人たちが来ると思ったのね。でも心配しないで、多分彼等も来るわよ。ラム酒を持ってくるかどうかはわからないけど」

 確かに後からラム酒製造のYさんとTさんがやってきた。でもラム酒は持ってこなかった。
ヴィエンチャン・レクイエム | コメント(0) | 2013/07/05 10:18

ヴィエンチャン・レクイエム(11) 

「ミッション完了」

 結局、V君の村から帰った翌日にヴィエンチャンに帰る事にした。S君に言わせればルアンパバンでの撮影はもう無理だというのだ。この二日間でルー族、プーノイ族、カムー族、タイ・ダム族、モン族、ヤオ族の六部族、と予定の半分を消化したのだから、それもそうかもしれない。ただ、僕としては衣装を撮るだけではなく村の生活などもスナップしたかったし、パパのためにヴィエンチャンに早々に引き上げるのも気に入らなかった。もう一日だけルアンパバンに居たかったが、そうすればヴィエンチャンでの予定がタイトになってくる。ヴィエンチャンであと残りの六部族を撮らねばならないのだ。それも二日間で。

 8時間かかってヴィエンチャン市内に帰り着き、翌日のスケジュールの話になった。S君の考えでは、この会の現地代表Dさんの妹さんがラオス民族文化の保存に熱心で、少数民族の衣装も多数持っているという。それを借り出してヴィエンチャンの子供教育開発センター(ルアンパバンの子供文化センターと同類の施設、ただし管轄官庁が違う)に集まってくる子供たちに着せて撮影する、というものだ。まあ人種の問題は依然あるが、それには目をつぶって、それで行こうということになった。ただすべて背景を違えるためには一日中車に子供たちを乗せて走り回らなければならない。そこで、S君に聞いた。

「ところで、明日の車は大丈夫だろうね。V君に言ってあるんだろ」
「はあ、明日は車は要らないでしょ」
「だめだよ、この炎天下にあっちこっち歩けっていうの?」
「いや、ジョーさんは僕がバイクで迎えに行くし、子供たちは多分皆バイクを持っているし、撮影はすべて会の事務所の近所で出来ると思うんだ」
「何を言っているの、事務所の周りだけで6箇所も撮影できるポイントがあるとは思えないね。多分子供たち全員を乗せて川べり、村の中、田んぼ、ちょっと瀟洒な家の中、など色々廻らねばならないんだ。車がなくてどうする気だ」
「でも…、今日ルアンパバンから帰って明日も一日中運転しろってVさんに悪くて・・・、それに明日は土曜だし…」
「これは仕事だよ、君たちの会の。土曜日は仕事しないのなら僕もしなくていいのかい? そういうわけにいかないだろう。だからV君に、明日朝、僕のホテルに迎えに来るように行ってくれ」
「えーーと、それが、僕の口から言えないです・・・。Nさん(日本人スタッフ)から言ってもらえると有難いんだけど」

 成る程、これで今までの事がすべて了解できた。V君は会の運転手。S君はスタッフとして会の中ではずっと重要な仕事をしている。しかしV君は30歳でS君は23歳。歳の差は歴然としている。だからS君はV君に頭が上がらないのだ。だから彼の村に行って何も出来なかったことに対して文句も言わないし、父親が乗り込んできても何も言わない。今日ヴィエンチャンに帰る事を僕に相談無しに決めたことだって、すべてV君に対しての気遣いなのだ。僕がNさんに電話で頼んだものの、結局S君は勇を鼓してV君に伝え、V君は快く了承、めでたく翌日の準備は完了となった。困ったことではあるが、実に東洋的で日本人にはわかりやすい人間関係だ。

 翌日、民族衣装を着けた女の子5人に男の子1人を車に満載、ヴィエンチャン市内各地を走り回り、撮影はすべて順調、午後3時過ぎには終了してしまった。その間、若い女の子達に囲まれ(と言っても11歳から17歳までの子供たちだ)、S君のテンションは上がりっぱなし。撮影が終わってセンターに帰ってもなかなか「終了」にしてくれない。とにかく女の子たちにべったりとくっついて離れようとしないのだ。顔がダレっぱなしなのだ。「おい、僕は帰るぞ」と言っても「ちょっともう少しだけ」と言って聞かない。

 そのうち「じゃ、ジョーさん先に帰って。Vさんに送ってもらってください」となってしまった。これがこの地での23歳男子青年の姿なのだ。子供達がいかに純情・素朴かわかろうと言うもの。この子供達の素朴な笑顔を見ていると魂が洗われる思いがする。だから僕は何度もこの地に来てしまうのだ。

 これで今回のラオスでのすべてのミッションは終わった。3週間居て労働時間はたったの3日間。もっと各地に行きたかったが本来のスケジュールが当局のせいでキャンセルになったのだから仕方が無い。何もないラオス、何もないヴィエンチャンだが何回か来てみればこの「何もなさ」が他に替え難い貴重な魅力なのだと何人も気づくだろう。そう、自分の魂の中を覗くには格好の場所なのだ。
ヴィエンチャン・レクイエム | コメント(0) | 2013/06/29 10:18

.

長らく無更新ですが、保守でございます。
未分類 | コメント(0) | 2013/06/26 15:38

ソウルの熱情 Soul in Seoul(34)

 安さんの話に戻ろう。

 安さんには二人の息子そして二人の娘がいる。僕の祖父の教えを受けて、安さんは子供たちに「誠実であれ、勤勉であれ」と説き続け、四人の子供たちはそれぞれソウルの有名大学を終えた。長男は韓国銀行勤務、次男は裁判官、娘たちは医者や大企業社員に嫁いでいるからそれぞれ社会のエリートと言っていいだろう。

(それに引き換え、「おじい様」の直系である僕自身は社会の落ちこぼれ、とは言いたくないが、エリートからは程遠い存在だ。)

 長男のS氏は二〇〇一年、韓国銀行東京事務所の次長として家族とともに東京に着任、そのとき安さんも息子と一緒という気安さから、一年間東京に滞在した。この間、たまたま僕が所属する外国特派員協会は、韓国銀行と有楽町のビルで隣同士だったため、僕達は特派員協会のバーで何回か親交を温める機会を持った。

 S氏は、外見は細身でちょっと神経質そうだが、如才のない態度は銀行マンでありエリートサラリーマンそのものだった。しかし反日教育の中で育った彼とは何か打ち解けないものを感じつつ、三年後に彼はソウルに戻った。その後、音信がなくなった。

 二〇〇五年、S氏からの突然の手紙で、安さんが一年前に他界した、と知らせてきた。なぜもっと早く知らせてくれなかったのか理解に苦しむ。この手紙とて安さんから音信が途絶えていたために、何回か僕の両親が手紙を送った後でのものなのだ。

 S氏は単に知らせることを失念してしまったのかもしれない。だが、我が家を故意に無視したのかもしれない。そんなS氏側の事情はともかく、父は兄弟を失ったかのごとく悲嘆し、同時に自分たちの時代が終わろうとしている感慨を漏らした。

 安さんは生前よく僕に言っていた。「これからは息子たち、そしてあなたの時代です。仲良くしてください。それが韓国と日本の明るい未来を作るのです」と。

 大統領選を取材して以後、僕は韓国を訪れていない。世間では「韓流ブーム」とやらで韓国人スター達に人気が集中し、韓国ツアーが盛んだ。僕にはこの一時のブームが本当の日本と韓国の隣人としての付き合いになって欲しいと願いつつも、逆に僕の中で遠のいていく韓国を感じざるを得ないのだ。

 そう言えば、今では首の周りの例の痣もすっかり消えてしまっている。
(了)
ソウルの熱情 Soul in Seoul | コメント(0) | 2011/08/04 09:01

ソウルの熱情 Soul in Seoul(32)

 ここで少し祖父について記しておこう。

 祖父は金沢で明治一〇年に生まれている。曽祖父は金沢藩前田家の御典医だったそうで、明治になってからも家の天井からは登城用の籠が吊るされていたというから、本当の話だろう。

 祖父は金沢の中学、そしてやはり地元の第四高等学校、そして京都帝国大学の法科に進んでいる。金沢時代は相当の「ワル」だったらしく、祖父の姿を見つけると人々は回り道をして会うのを避けたという。しかし今に言う暴走族のようなものではなく、いわゆる義賊ぶったワル、または乱暴者とでもいうのだろうか。常に剣道着を身につけ(剣道部員だった)、鎌とお椀を腰から下げ(命、かま・わん、という洒落)、竹刀を持ち金沢の町中を闊歩していたという。その頃の(特に明治中期の)旧制高等学校の生徒は皆こんな感じで、特別な変人ではなかったらしい。

 父も祖父と同じコースを歩んだが、父の頃(昭和初期)の写真を見れば、明治も昭和初期も同じように僕たちには異様だ。文字通り弊衣破帽に素足の高下駄。蕎麦屋に行けばマントの中に火鉢を隠し持って来たり、学生寮の二階に住む寮生は「寮雨」と称して窓から小便を放ったり、とやりたい放題だ。

 こんな思い出を父はいかにも楽しそうに話す。社会もそれを許していたし、本人達も非常識と言われるスレスレの線で自重する感覚は持っていたようだ。

 さて、祖父は大学卒業後大蔵省に入省、すぐに京都府内の田舎町の税務署長として赴任した。しかし貧農から税を取り立てる仕事にすっかり嫌気が差し、ニ、三年でさっさと役人生活を辞めてしまった。大学を出たばかりの正義感に満ちた若者には耐えがたかったのだろう。

 大学の恩師にその後の道を相談したところ、これからは「保険会社」がいいと言われ、明治生命に入社した。当時生まれたばかりの保険制度は「学問を発展させ、国を助ける」と言われ、世間から期待された制度であり会社だったという。

 なぜこうなるのか理解できないが、ともかく福沢諭吉でさえ「保険制度は生活の不安を解消し、学者は学問に打ち込める。しいては人の品性をも高める制度」だと説いている。祖父がこんなことを言われればその職に飛びつくのは容易に想像ができる。

 ところが、熱情あふるる祖父は、ここでも素直にサラリーマンが勤まるような男ではなかった。上に楯突くあまり各地の支店長を転々とした挙句、京城(ソウル)に一〇年近くも「飛ばされて」いた、というのが真実らしい。大人しくしていれば当然社長になっている人物だったのだろうが性格がそうはさせなかった。

 その息子(つまり僕の父親)も、若かりし頃、嫌味な上司にインク瓶を投げつけ、おかげで地方に五年も飛ばされていたという実績があるから、これはもう血筋としか言いようがない。この地方転勤時に僕が生まれているため、兄弟の中では唯一、僕だけが東京生まれではない。(こうした家族の「秘密」を僕に語ってくれたのも安さんだ。)
ソウルの熱情 Soul in Seoul | コメント(0) | 2011/08/04 08:51

ソウルの熱情 Soul in Seoul(31) 

「安さん」(父達は親しみをこめて「ヤスさん」と呼ぶ。しかし本名は「アンさん」だ)、彼は戦前祖父が京城にいた時、父の弟、つまり僕の叔父の子守として子供の頃から祖父宅に住み込んでいた人物で、現在はもう七〇歳を越えた老人である。

 七〇歳といっても50歳台にしか見えないほど髪の毛は黒々とし、歩きは僕よりしっかりしていた。ソウル大学の裏山に登ったときなど、息を切らせた僕を尻目に、さっさと先に頂まで行ってしまったほどだ。

 安さんは祖父の転勤と共に一緒に日本に渡り、日本で就職。戦後一番に韓国に戻って四人の子供を育て上げ、今は悠々自適の生活を送っていた。だから僕が韓国にちょくちょく行くようになってからは必ず僕の通訳をかって出てくれるようになっていた。

 彼にとって僕は世話になった祖父の孫であると同時に自分の息子のような存在だったのだろう。そういう気安さのせいか、安さんは時々、僕の持っていた常識を覆すような話をしだすので面食らわされた。

 例えば、彼に言わせると、この朝鮮で政治、学校、郵便、鉄道交通、その他近代国家としての体裁を整えたのは日本であり、自分がこうして社会の中で成功して今あるのは「礼儀を尊び勤勉であれ」と教えてくれ、自分の子供達と分け隔てなく育ててくれた祖父のお陰だ、と言うのだ。

 それに、祖父は日本人からも朝鮮人からも慕われ、彼の離任時には京城(ソウル)駅前広場を埋め尽くす人々が見送りに来たという(いくら何でもこれは大げさだろう)。こういう立派な日本人もいたのだ、と安さんは強調する。だから朝鮮が日本の植民地にならなかったら、今のような韓国の発展はなかったろう、とまで言う。

 韓国内ではいわゆる「親日派」の発言だ。こうした言論に僕の方から反論することではないが、それで事が済むわけではないし、歴史も書き換えられはしない。ただ、僕は自分の祖父の実像を初めて他人から、それもソウルで教えられたし(祖父は僕の生まれる前に亡くなっており、祖母からは暴君として教えられていた)、また、韓国の人から感謝されている日本人も居たのだ、ということを知って、罪の意識がいくぶん和らいだのは確かだ。
ソウルの熱情 Soul in Seoul | コメント(0) | 2011/08/02 20:50

ソウルの熱情 Soul in Seoul(30)

 なぜ、かくも韓国・朝鮮という言葉がこれほどまでに自分、否、日本人すべてを呪縛するのだろうか。僕は戦後の生まれであり、日本の植民地支配の実体を知っているわけでもないし、東京育ちだから関西のように在日朝鮮・韓国の人達と身近に接したこともない。

 考えられることは、韓国の日本への怨念に対し、まともに受け答えしようとする態度が戦後の日本人になかったからではないか。それは出来なかった、ということではなく意識的な回避と、底に流れる差別意識によるように思う。

 この様な状況の中で育った僕達は「日本は朝鮮で非道い事をしたんだ」とか「差別はいけない」などと教えられながら、社会の韓国・朝鮮へのあからさまな差別を見ていた。この矛盾が日本人を、少なくとも僕自身を呪縛するのだ。それに僕の家族も関係していたと思う。

 実を言うと、韓国は僕にとってはそんなになじみのない国というわけではなかった。むしろ幼い頃から家族に聞かされていたがゆえに、身近な存在であったかも知れない。

 僕の祖父は戦前の京城(現在のソウル)に仕事の関係で10年近くも住んでおり、父もその兄弟姉妹達も幼少期をここで過ごしている。また、祖父の趣味が骨董だったこともあり、家には朝鮮の螺鈿の家具や焼き物が数多く置いてあった。

 しかし、わが家で朝鮮の話が出ることはまずなく、ましてや強制連行や差別などという暗い言葉が語られることはなかった。それは、今から考えれば、祖母や父が朝鮮での植民地支配の醜さを身をもって知っていたからこそ、贖罪の念からこの間題には触れたがらなかったのだと思う。

 反面、今の韓国の日本への過度の感情的反発に辟易していたのも確かだ。日本人にとっては罪ではあったと認識する理性は持っていても、「ならばすべての不都合の根源を引き受けよう」という感情は持っていない。

 この相反する理性と感情の狭間で、僕の家族は発言を控え呻吟していたのだと思う。

 こうした窒息状況の中で、我家での息抜きは「安さん」という一人の男性だった。この「安さん」を通して我家では戦後もずっと韓国と深い付き合いが継続されていた。「安さん」から手紙が来たとか、今度はいつ日本に来るのだろう、という会話が家族の中でなされていた。そしてその後この「安さん」こそが、僕の当初の韓国取材での通訳・ガイドを務め、僕の韓国・朝鮮問題の先生となった人物なのだ。
ソウルの熱情 Soul in Seoul | コメント(0) | 2011/07/31 13:44

ソウルの熱情 Soul in Seoul(29)

 翌朝、どちらからともなく目を覚まし朝の準備に入る。P君はすっかり落ち書いたのか、昨夜の話は何もしない。僕の方からもあえて話しはしない。まるで昨夜の出来事は何もなかったかのようだ。

 事務的に彼の仕事の報酬を支払い、領収書を書いて貰う。衣類や機材の散らかった部屋を片づけ、それぞれ自分の荷物を作り、入り口のドアの横に運んだ。電話でベルボーイを呼び、荷物をフロントに降ろしてもらう。

 僕はカメラバッグを肩にし、彼はいつものようにストロボと三脚のバッグを持って後に続いた。フロントで勘定を済ませた僕達はこれもいつものようにタクシーを探しに外に出た。

「本当に世話になったね。お陰でいい仕事が出来たと思う。君と-緒にいて楽しかった。また逢えることもあるだろうけどそれまで元気で。じゃ、アンニニョンヒ、カセヨ(さようなら)」

「僕もお会いできてよかったと思います。気をつけて帰って下さい。ではアンニョンヒ、ケセヨ(さようなら)」

 僕はそのままタクシーに乗り込み空港へと向かった。穏やかな説得はとうとう出来なかったけれど、頼まれた破談請負人の仕事は終わった。

 彼に誤解を与えて、といっても僕には真相はわからないが、こんな荒っぽい結末になってしまったのが残念だが、そのうち彼も彼女のことを理解する日がくるだろう、と思うことにした。
ソウルの熱情 Soul in Seoul | コメント(0) | 2011/07/30 13:21
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